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【歴史】「なぜ神武は纒向ではなく橿原に宮を建てたのか」 日本最初の「元旦」と結びつく「神武天皇」の正体★3

   

1 :泥ン ★:2018/01/06(土) 10:43:30.86 ID:CAP_USER9.net
新潮社 フォーサイト 1/4(木) 6:00配信
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180104-00543183-fsight-soci

 日本史上「最古の元旦」の記録は、神武天皇(神日本磐余彦=かむやまといわれびこ=)の即位にまつわる『日本書紀』の記事だ。「辛酉年(しんいうのとし、西暦紀元前660年)」に畝傍山(うねびやま、橿原市)の東南の麓に橿原宮(かしはらのみや)を建て、王位に就いたのだ。「辛酉」は1260年に1回めぐってくる特別な年で、中国の讖緯説(しんいせつ)によれば、革命的事件が起きるとされている。だから『日本書紀』編者は、初代神武天皇の即位年にふさわしいと考えたのだろう。

 そこで今回は、神武天皇の即位に注目してみよう。

■神武天皇と「九州の海人」

 近年、神武天皇は次第に軽視されるようになってきたと思う。まず、今から2600年以上も前に即位したという『日本書紀』の話は、明らかな作り話だ。弥生時代(あるいは縄文時代)に国の中心がヤマトに存在したはずがない。

 一方考古学の進展によって、ヤマト建国の詳細が分かりはじめてくると、神武の謎はむしろ深まった。三輪山(奈良県桜井市)山麓の扇状地に、3世紀から4世紀にかけて、政治と宗教に特化された都市・纒向(まきむく)遺跡が出現していて、ここにヤマトが建国されていたことが分かってきたが、そうなると「神武天皇は橿原に宮を建てた」という『日本書紀』の設定にも、疑念が湧いてくる。実在の初代王は第10代崇神天皇で、神武と崇神は同一人物と通説は言うが、それならなぜ、神武は崇神と同じように、盆地の東南部、纒向遺跡の近くに宮を建てなかったのだろう。

 それだけではない。天皇家が九州からやってきたという話も、ここに来て疑わしくなってきた。ヤマト建国黎明期の纒向遺跡に集まってきた土器は、東海地方や近畿地方のものが大半で、九州のものは、ほとんど含まれていなかったからだ。

 また、ヤマト建国の前後、近畿地方や山陰地方から多くの人々が九州に流れ込んでいたことも分かっている。だから、「邪馬台国は北部九州にあって、それが東に移ってヤマトは建国された」というかつての常識は通用しなくなったのだ。そうなると、ますますもって、「九州からやってきた神武」は、影が薄くなる。

 しかし、神武の存在を否定してかかることもできない。神武が創作とすると、かえって分からなくなることがある。

 たとえば神武天皇のまわりに「九州の人脈」が集まっていたという謎がある。

 連載の中で紹介してきたように、神武天皇の母と祖母は姉妹で、海神(わたつみ)の娘だったが、彼女たちは奴国(なこく、福岡市)の阿曇(あずみ)氏と縁が深い。また、橿原宮の周辺を固めていた大伴氏、久米氏、忌部(いんべ)氏たちは、九州の海人(あま)の末裔だったようで、顔に入れ墨をしていたという記事が、『日本書紀』にある。「魏志倭人伝」には、九州の海人が水に潜ってアワビなどを捕っていること、入れ墨をして大きな魚(サメなど)から身を守っていると記録されている。南方の習俗が縄文時代に日本に伝わっていたと思われる。この海人の風習を受け継いだ人たちが、なぜか橿原宮のまわりに集住していたことになる。これは何だろう。

 畝傍山が天皇と強くつながっていたことは、中大兄皇子の大和三山の歌(『万葉集』巻1-13)からも分かる。

「畝傍山が雄々しいので、耳成山と天香具山がキサキの地位をめぐって争っている。神代からすでにそうだったという」

 とあり(異なる解釈もあるが、割愛する)、畝傍山は男王を象徴していたことになる。それはなぜかと言えば、「初代王が畝傍山麓で暮らしていた」という伝説が生きていたからではなかろうか。

続きは>>2

128 ::2018/01/06(土) 19:47:16.34 ID:hi2ltHk20.net

>>121, >>125
問題は、「なぜ記紀はそういうストーリーを採用したのか?」だよね。
基本は各地の神話のつぎはぎなんだろうけど、こういう
あきらかに理不尽な筋は、避けようと思えば避けられる気がする。

34 :名無しさん@1周年:2018/01/06(土) 11:34:46.82 ID:xABvFW7R0.net

>>32
東京土人でござる

84 :名無しさん@1周年:2018/01/06(土) 14:52:32.30 ID:0d9KETRD0.net

初めの方の天皇を普通の年齢に直すと、天照と卑弥呼が同じ時期に重なるんだよ

424 :名無しさん@1周年:2018/01/08(月) 12:55:45.20 ID:cF+MAR6n0.net

>>407
昔は通い婚が主流だった見たいだから除福一派の中にも婿兵として豪族に入り込んだ中国人も多かったんじゃね?

2,3代も過ぎれば立派な日本人だ。昔を懐かしんでウリナラ2000年を言い出したのだろう。

元々の住人ならわざわざそんな経歴自慢する必要も無いし。

301 :名無しさん@1周年:2018/01/07(日) 21:59:58.66 ID:80Q43PvH0.net

得に足利尊氏と徳川家康は、三河の点で丸被り

◇元弘の変(1331〜1333年)室町幕府の支配層、三河武士◇

【三河県岡崎市】
・足利氏(宗家、鎌倉公方):大門屋敷、近辺(八剣神社内)に足利尊氏の墓あり
・斯波氏(足利一族):管領家、奥州管領家、奥州探題、羽州探題、守護職(安房、若狭、越前、越中、尾張)、屋敷(跡地に永源寺)
・仁木氏(矢田一族):幕府執事、守護職(伊賀、伊勢、志摩、三河、遠江、武蔵、摂津、丹波、丹後、備後)、仁木城
・細川氏(矢田一族):管領家、守護職(伊賀、伊勢、志摩、摂津、和泉、河内、若狭、越前、越中、備中、備後、淡路、阿波、讃岐、伊予、土佐、日向)、細川御前田城、細川城山城、細川権水城
・上地氏(矢田一族、細川氏分家):上地城
・上地氏(矢田一族、仁木氏分家)
・高氏(足利被官):室町幕府執事、守護職(伊賀、伊勢、志摩、尾張、三河、武蔵、上総、和泉、河内、下野、丹波、石見)、屋敷(跡地に総持寺)
・上杉氏(足利被官):関東管領家、守護職(伊豆、武蔵、上野、丹後)、日名屋敷
・倉持氏(足利被官):奉公衆、便寺屋敷
・粟生氏(足利被官):奉公衆、秦梨城、秦梨城山城、梅藪屋敷、西熊屋敷

【三河県幸田町】
・大草氏 (足利被官):奉公衆
・大場氏 (吉良被官):深溝城

【三河県豊田市】
・上野氏(足利一族):守護職(丹後、石見)、奉公衆
・中条氏(足利被官):守護職(尾張)、奉公衆、金谷城

【三河県西尾市】
・西条吉良氏(足利一族):将軍御一家、西条城
・奥州吉良氏(足利一族):奥州管領家、守護職(因幡、但馬)、関東公方御一家、東条城
・一色氏(足利一族):四職家、九州探題、守護職(筑前、肥前、肥後、日向)
・荒川氏(矢田一族):戸賀崎氏分家)守護職(丹後、石見)、戸ヶ崎城
・饗庭氏(足利被官):奉公衆、饗庭城、饗庭命鶴丸
・小笠原氏 (吉良被官):幡豆小笠原氏、三河守護代
・大河内氏 (吉良被官):引馬荘荘官

【三河県豊川市】
・関口氏(足利一族):奉公衆
・星野氏(足利被官):藤姓熱田大宮司一族、奉公衆
・萩氏(足利被官):藤姓熱田大宮司一族、奉公衆

【三河県豊橋市】
・石橋氏(足利一族):将軍御一家、守護職(若狭、伯耆、備後)

【三河県新城市】
・設楽氏(足利被官):三河伴氏、奉公衆
・富永氏(足利被官):三河伴氏、奉公衆

279 :名無しさん@1周年:2018/01/07(日) 19:39:45.34 ID:h5bBYfgn0.net

>>277
東大寺山古墳は和邇氏の古墳で、周囲の古墳群も和邇氏といわれてはいる

361 :名無しさん@1周年:2018/01/08(月) 03:03:36.50 ID:Ak6RdPOH0.net

ニニギは瀬戸内・大阪湾沿岸の高地性集落の出身かもしれんよw
高天原は高地性集落の記憶。
国産みの最初に地表がドロドロしていたのは津波被害。
津波前に住んでいた平野部を出雲系移住者から取り返したのが国譲り。ついでに出雲本国を勢力下にしてしまったりと。
出雲の出土物には瀬戸内の影響があるからね。
ニニギは被災地の開拓で派遣された集団のひとつで、九州の辺境が担当になった。
大阪湾方面はニギハヤヒが派遣された。

121 :名無しさん@1周年:2018/01/06(土) 19:30:03.58 ID:Og9fTUwb0.net

>>119
12代も間をはさんだらほぼ他人だからな
応神仁徳の頃、日向からの援軍があまりにも文化がちがって「なんだこいつら」って感じだったようだしw

273 :名無しさん@1周年:2018/01/07(日) 19:08:53.93 ID:KDn02sSE0.net

崇神天皇が征服したのは北陸、東海、中国地方で九州を征服したという話はないんだよな

12 :名無しさん@1周年:2018/01/06(土) 10:56:24.40 ID:zsTZNinO0.net

最初の起源の付くものは全てウリナラが創造したものホルホル

418 :名無しさん@1周年:2018/01/08(月) 11:23:00.29 ID:JPhpzgkm0.net

>>414
獲加多支鹵の鉄剣も出てるし、ふつうに大和系の有力な豪族でしょ

100 :名無しさん@1周年:2018/01/06(土) 17:23:46.39 ID:wGkM/1q20.net

>>95
横からで悪いが補足すると「魏志倭人伝の邪馬台は大和のことですよ」と書いてあるのは隋書

379 :名無しさん@1周年:2018/01/08(月) 03:38:06.83 ID:rR9xGhfj0.net

邪馬台国九州説と神武実在はあり得る
別王朝があっただけのことで簡単に説明できる
でも邪馬台国畿内説と神武実在の組み合わせは一番ありえないだろ
時系列でどっちが先かとか、倭人伝と記紀で建国の経緯が全く違うとか矛盾点だらけ

362 :名無しさん@1周年:2018/01/08(月) 03:03:39.98 ID:joNrBCet0.net

>>356
瀬戸内と大分の交易は無かったのかな?地理的には近いんだけど
大分はすでに瀬戸内とは対立する北部九州の勢力の手中にあったのか

174 ::2018/01/06(土) 22:55:07.93 ID:hi2ltHk20.net

>>171
7歳という年齢には、何かマジカルな意味があるんかな。

神功皇后についても、中国のとある王様の娘として転生して、
7歳のときにお腹に日光があたったら妊娠して応神天皇を生み、
その応神が実は宇佐八幡、てな奇怪な伝承がある(住吉大社神代記)。

要は朝鮮半島にありがちな日光感生伝説なんだけど、
これもやっぱり7歳だ。

378 :名無しさん@1周年:2018/01/08(月) 03:32:02.44 ID:Ak6RdPOH0.net

>>374
瀬戸内をひとまとめするのは大雑把だな。
論文でも地域を分けているのに。

142 ::2018/01/06(土) 21:06:36.78 ID:hi2ltHk20.net

>>139
そのコピペはよく見かけるけど、

「昭和になってから宮崎県庁がキャンペーンを始めた」から、
宮崎は日向神話の比定地から除外されるべき。

という主張にしか見えないんだよな。
いや、たしかに阿多説には説得力があるが、そこはそれだ。

126 :名無しさん@1周年:2018/01/06(土) 19:46:54.28 ID:EMEUxbsk0.net

>>122
縄文人のDNAは皆に入っている
また、父系しか引き継がないY染色体には、全日本人の1/4‾1/3に縄文人の遺伝子が残っている

これの意味するところは
・女は基本的に縄文人としか結婚しない
・渡来系は繁殖力が弱かった
・渡来系は極少数だった
などの仮説が成り立つ
つまり渡来系が支配し抑圧なんて無理なんだよ、
少数で来て同化したんだね
あとアイヌは全く別の話だわ

227 :名無しさん@1周年:2018/01/07(日) 17:17:11.07 ID:MrsIVdCg0.net

むしろ北部地域は弥生末期からかなりハッキリと吉備、畿内の土器が広まって在地化している
そして古墳時代に入ると中規模の古墳が出てくる状態
かなり早くから大型古墳が作られて副葬品も際立つ東部地域との差が明確

平定できないどころか真っ先に畿内の影響下に入ってしかも大した扱いを受けてない
熊襲平定に出てこないのも当然、もうとっくに支配下だから

306 :名無しさん@1周年:2018/01/07(日) 22:51:32.86 ID:mpa3ctvR0.net

>>282
>伊支馬は生駒。火の神。         ←馬を「マ」と読んでいる。
>弥馬升は三見宿禰、出雲大臣の子。  ←馬を「ミ」と読んでいる。
>弥馬獲支はミミ鷲、日鷲。         ←馬を「ミ」と読んでいる。

どうしてこうなるか解説をしてくれる?

95 :名無しさん@1周年:2018/01/06(土) 17:04:24.05 ID:p+L3JGPS0.net

>>93
と、思ってたらそうなんだ
魏志倭人伝に一応ちゃんと書かれてのか

180 :名無しさん@1周年:2018/01/06(土) 23:28:00.64 ID:X+LLM/a80.net

>>177
宇宙人と同じくらい荒唐無稽な話だという比喩だ
バカというならどこがバカか具体的に指摘したらどうだ

245 :名無しさん@1周年:2018/01/07(日) 18:10:46.17 ID:lJ29NYR50.net

>>238
なるほど
それでは卑弥呼の邪馬台国の時代には天皇に相当する人物が他にいたということ?
親魏倭王の金印をもらい倭国王と認められた卑弥呼より上の地位の人物?

13 :名無しさん@1周年:2018/01/06(土) 10:56:32.48 ID:bo+a0hCH0.net

巻向って穴っぽこしか出てこないでしょう、俘囚収容所だったんじゃないの?

99 :名無しさん@1周年:2018/01/06(土) 17:20:16.52 ID:wGkM/1q20.net

>>94
ヤマト王権の成立時期が3世紀初頭まで遡ると年代が修正されたこと
3世紀前半には畿内系住人が北部九州に進出していて、博多湾沿岸は畿内政権の傘下に入っていること
纒向や畿内で3世紀前半の中国との交流痕跡があること

魏志倭人伝には魏使は北部九州に頻繁に来ていたとあり
魏使は畿内ヤマトが列島盟主の国であるという情報を入手していたと考えられる
魏使が列島盟主の国を認知している以上、九州の小国は出る幕がない

115 :名無しさん@1周年:2018/01/06(土) 18:15:49.90 ID:joRN69kx0.net

日本最初の首都ですからね藤原は
だから自分の墓はご近所の橿原を選んだのでしょう

275 :名無しさん@1周年:2018/01/07(日) 19:13:45.76 ID:rq7xq3b00.net

大阪の地は優しくて各地から逃れてきた人々が住み着くんだ。
丹後半島のヤマタノオロチ(本来のスサノオ)、出雲のサルタヒコも逃げてきたんだね。

倭国大乱で彼らを殺したのが、阿波!尾張の火神こと国常立神!九州からきた石神!。

154 :名無しさん@1周年:2018/01/06(土) 22:18:54.35 ID:vcOdxMSQ0.net

船の漕ぎ手を雇う金がある首長なら
瀬戸内海の果てがどんな所だろうか探検に出すのは誰でも考える簡単な事
北九州から大阪堺までの400程度の航行なら
金さえ出せば漕ぎ手は幾らでも見つかるのでさえ見つかれば簡単に航行できる。

426 :名無しさん@1周年:2018/01/08(月) 13:46:00.32 ID:fwnbAjimO.net

>>1
正体も何も現人神じゃなかったんですかね?(鼻ホジ)

265 :名無しさん@1周年:2018/01/07(日) 18:52:38.60 ID:rq7xq3b00.net

2世紀中頃、尾張の火神、阿波、葛城、宮崎や遠賀川の石神達が始めた全国征伐。
この争いは600年続きます。
尾張の火神、阿波などvs彼らにやられた勢力です。

ヤマト政権内で権力闘争が繰り返され、8世紀後半には後継者がいないという可笑しな状況に陥ります。
そして仕方なく敵対勢力から桓武天皇を迎えることになりました。
桓武天皇は、倭国大乱前の渡来人も縄文系の人々も仲良く暮らしていた時代の王、イザナギの血を引く方でした。

以降両勢力は和睦して、今の日本があります。




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